カチコチカチコチカチコチ…………
静まり返った部屋の中では時計の秒針がやたらと大きく聞こえる。 すみれは物憂げにひとつ、溜息をついた。 夜は嫌い。特にこんな静かな夜は。こんな星の瞬く夜は。 窓の外に広がる美しい帝都の夜景さえもが疎ましい。 空の星も、地上の明かりも、同じ光に囲まれている。 常に輝いてあろうとし、実際そのつもりでいる自分が、しかし独りぼっちだということを思い知らされていた幼い頃を思い出すから。 大きな屋敷も、広い部屋も、自分自身の孤独と矮小さを増幅するものに他ならない。 幼い頃のすみれはそんな時、自分自身の膝を抱きかかえてベッドの中で丸まっていた。母親に守られる胎児のように。
今は、少し違う。
こんな独りぼっちの気持ちになった時(尤も、最近ではそんな感傷に陥ること自体殆ど無くなったが)、すみれはとりあえず部屋を出る。 廊下に出ると、目に入る7つのドア、それを視界に入れるだけで幾分それまでの圧迫した気分が楽になる(こんな事は他の隊員には絶対に知られたくない事だが)。そしてそのドアの前を通り抜け左に曲がる。 ……大神の部屋だ。
大神の部屋に通じるドア、その前に立ちそっと扉に手を触れる。額を扉に当て瞳を閉じる。 そうすると気持ちが落ちついて楽になる。 大神が海軍演習に行っていた間も、同様であった。そして、きっと、近く大神が欧州に行ってしまっても同様であろう。 小さな儀式。
「あれ? どうしたんだい俺の部屋で?」 「しょ、しょう……中尉! どうしてここに!」 「どうしてと言われても見回りが終わったんで帰ってきただけだよ」 迂闊だった。神崎すみれ大失態である。部屋を出る前にちらりとでも時計を見ていればこの時間帯にここを訪れる危険性に気が付いたであろうものを。 ……そんなことに気が回る心の余裕がなかったということなのだが。 「で、すみれ君はどうしてここに?」 「え……それはですわね……そう! 廊下を歩いていると急に立ちくらみがしたのですわ」 「それはいけない。大丈夫かいすみれくん? 部屋まで送ろうか」 ハッキリいって胡散臭いことこの上ない言い訳であるが、あっさり信用してしまうあたりがいかにも大神らしいといえば大神らしい。 「いえ、大丈夫ですわ、もう落ちつきましたから……」 落ちついていないどころか動揺しまくりである。眼が泳いでいる。 その様子を見てさらに勘違いしたのか大神は再び部屋まで送ることを主張した。さすがに強硬に断ると怪しいのですみれもそれに従う。
「俺の腕に掴まっていた方がいい」 心底心配してくれている大神に少し罪悪感を感じながら、大神の手にすがる。普段ならば大神から手を伸ばしてくれることなど滅多にないので罪悪感よりも少々別の感情の方が上回ってしまう。 しかし一抹の寂しさもよぎる。 こうして大神と話すことができるのも、その腕にすがることができるのも、あと数日。 二年前、突然行ってしまったように、また大神は行ってしまう。 留学期間は、未定。米田の言葉がつい今し方聞いたかのように頭をよぎる。 「……中尉」 「なんだい? すみれくん」 もうすみれの部屋は目の前である。この近さが今だけはうらめしい。 「仏蘭西に行ったら、花の都に相応しい男性になってくださいましね」 こんな事が言いたいわけではない。 「そうだね、すみれくんに及第点をもらえるように頑張るよ。今度は花組の皆に手紙も出せるし」 微笑しながら大神が答える。 「手紙なんて……書いて貰わなくて結構ですわ」 「……すみれくん……?」 とっていた腕を放す。離さなければならない……これからは。 「少、いえ中尉はそんなことに気を回さないで前だけ見ていればいいんですわ。 軍からの特別留学生としての巴里行き、後ろなどを振り返っている暇がお有りだとお思いですの?」
強がり半分、本気が半分。 大神が違う世界に行ってしまうのは寂しくて仕方がないが大神の前進の重荷になるのはもっと嫌だった。 そんなことは高すぎる矜持が許さない。
「……みんなに手紙を出すことが後ろ向きだとは俺は思わないよ」 若干高ぶったすみれに対して大神は静かに返答した。 「俺は、どこにいても花組の隊員のつもりだし、俺の進む道の先には必ず帝国華撃団があると信じている。 それに、花組のみんなや、すみれくんがいるからきっと俺は頑張れるんだと思うよ。守りたい人がいるから前に進むことができるんだと」
……そうだ。この人はそういう人だ。 自分のことよりもまず誰かのことを。 そしてそれを糧にまた大きくなる。 重荷だなど、夢にも大神は思わないのだろう。だからこそ自分はこの人に惹かれたのだ。
「だから、すみれくんからも手紙を書いてくれるかい? 以前と違って行き先を教えられないわけじゃないんだから机の中にしまい込まないでも……」 ここまで言ったところで、はっとして大神は自分の口を押さえたが、遅かった。彼は勢い余って触れてはならない領域に足を踏み込んでしまった。 すみれの肩が震えている。当然、笑っているのでもなければ寒いのでもない。怒っているのだ。 「少尉! いえ中尉! その話を蒸し返すのはやめて下さいません!? だいたい小、中尉はそういうデリカシーに欠けますわ!」 「すみれくん、もう夜も遅いし、皆に聞こえる!」 そんな言葉ですみれの激昂が収まるわけもない。 「っ、中尉のような人はいくら巴里に滞在したってその無粋で朴念仁なところは直りませんわ! 先ほどの言葉は撤回いたします! 失礼!」 機関銃のようにまくし立てるとすみれは大神の鼻先で大きな音を立ててドアを閉めた。
「どないしたんや?」 案の定すみれの大声で何事かと顔を出した隣の部屋の紅蘭に大神はただ、苦笑だけを返した。 一方、閉められたドアの内側では、 「全く本当に少尉ときたら三年前からああいうところは全く進歩していないんですから!」 まだぶつぶつと言いながら、しかし表情はほころんでしまっているすみれがいた。
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