一つ、溜息を付いてマリアは今まで読んでいた本を閉じた。 いや、読んでいたというよりは開いていたと言った方が正しいのかも知れない。本の内容は全く頭に入っていない。 時計の針は丁度深夜零時を指している。 もうそろそろ眠らなければ明日の稽古に差し支える。 にもかかわらず、マリアの頭は冴えていた。このままベッドに入ったところで眠りにつくことなどできないだろう。 ホットミルクでも飲めば眠れるかも知れないと、マリアは部屋を出た。
廊下は真っ暗で静まり返っている。 先日自分が夜更かしを戒めたせいもあるのだろう、花組の皆はもう眠っているようだ(最も、各自の部屋の中ではマリアのように起きている可能性もあるが)。 そっと階段を下りる。こう静かだと自分がたてる小さな足音さえも気になってしまう。 一階に降りたとき、今まで自分のたてる音以外入らなかった耳に微かな音が聞こえた。……ピアノだ。 マリアは眉を寄せた。きっと織姫だろう。 こんな時間にピアノを弾いているのは少々非常識だ。一言注意しておこう。 そう考えて、厨房に向かうつもりだった足を音楽室に向けたが、途中で気が付いた。これは織姫ではない。 音が違う。音楽のことに関しては素人同然のマリアだがその彼女にもわかるくらいに違う。 織姫の出す音に比べて少々拙い感じがする。よく聞いていると時々つまづいてさえいる。 では誰なのだろう。他に花組でピアノを弾ける人物といえばアイリスだが、さすがにこんな時間にアイリスが起きているとは考え難い。すみれだろうか。しかしすみれがピアノを弾いている姿などついぞ見かけたことがない。 そんなことを考えながら音楽室の扉を開く。途端に今まで室内の防音壁でふさがれていた音が溢れ出すようにマリアの耳に飛び込んでくる。 カチャン、という扉が閉まる音が存外大きく響き、同時にピアノの音が止まった。 ピアノを弾いていた主も、まさかこの時間に音楽室に立ち寄る人間が他にいるとは思っていなかったらしい。慌てた様子で椅子を引き立ち上がったのは、マリアの思ったどの人物でもなかった。 「……マリア?」 「……隊長!?」
「見回りの帰りにちょっと立ち寄ったんだ」 こんな夜中に非常識かとは思ったんだけど、防音設備が整っているから大丈夫かと思って、と言い訳する隊長の表情は、まるで悪戯を見咎められた子供のようだ。 「確かに少々非常識ですが、それより驚きました。隊長がピアノをお弾きになるなんて」 「昔、少しね。でもずっとやっていなかったから指がなかなか動かなくて。この間は織姫に『まだまだですね』なんて言われちゃったし」 「……織姫は知っているんですか?」 「ん? ああ。夏に特別公演をやったときにちょっとね」 少しショックだった。 隊長を補佐する立場とはいえ全てを知っているわけはないとは思っているが、自分よりも隊長との付き合いが短い織姫が、自分の知らない隊長のことを知っていたというのが少し胸に痛かった。身勝手だ。 そんなマリアの様子には気付く素振りもなく大神はピアノにそっと手を置いた。 「又暫くここともお別れだと思ったら、名残に弾いてみたくなってね」 ……ここ数日の間、出来得る限り触れたくなかった話題だ。 大神は明後日帝都を離れて巴里に留学する。
留学帰還は、未定。
大神に何か言いたいことがあるのだが、胸に何かがつかえたようにそれは出てこない。 静かにピアノの蓋を閉じようとする大神にマリアが伝えたのは別の言葉だった。
「……閉めてしまう前に、私に一曲聴かせてくれませんか?」 自分でも思いも寄らなかった言葉だが、大神にも意外だったらしい。手の動きが止まった 「驚いたなぁ。てっきりマリアに叱られるものだと思っていたよ」 しかし満更でもない様子で再びピアノの前に座る。 「何か希望は? とは言っても、何でも応えられる訳じゃないけど」 「隊長のお好きな曲を」 少し考えた後、大神が弾いた曲はマリアの知らない曲だった。しかし柔らかく聴き心地の良い曲。
静かに始まった曲が、また静かに終わる。 「お粗末様。何だか緊張しちゃったな」 「いえ、お見事でした隊長。今のは何という曲ですか?」 「今のはね、滝廉太郎という日本人が作った曲で『荒城の月』と言うんだ。俺達が産まれる少し前に亡くなったんだけど、彼は故郷を想いながらこの曲を作ったそうだよ」 「へぇ……」 話しながら大神が今度こそピアノの蓋を閉める。がちゃりという鍵をかける音が静かな室内に響く。永遠に続けばいいと思えた時間が終わりを告げる音だ。 「マリア、俺がいない間の花組をよろしく頼むね」 「はい、隊長」 「今度の巴里留学がいつまでかは分からないけれど俺は必ず帝劇に帰ってくる。それまで大変だと思うけど俺の代わりに花組をまとめていって欲しい。 俺も、マリアがいるから安心してここを発つことができるんだから」 「はい、隊長も頑張ってください」 それだけをやっと言うとマリアは先に音楽室を出るべく扉に手をかけた。
「マリア、俺にとっての故郷は栃木もだけれど……この帝劇もだよ」 その背中にかけられた大神の声にマリアは振り返った。泣きたいような、嬉しいような妙な気分だった。 「はい。……私にとってもです」
結局厨房には寄ることなくマリアは私室に戻った。 部屋に入るとそのままベッドに横になる。
……目を閉じると先ほどのピアノの音が再び聴こえてくるような気がした……。
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