あの驚天動地の日々が過ぎて、しばらくになる。
ただ自分の心に正直に、わがままに行動した結果が随分大事になってしまったけれど、それもなんとか収束した。
今、ライの周りはすっかり以前と同じ……でもない。
色々な事が少しずつ、もしくは大幅に変化した。
釣糸をたらしながらぼんやりとしていたライに背後から声がかけられた。
「あ、ライさん」
「珍しいじゃない。こんなところでぼーっと釣りなんて」
リシェルとルシアンだ。
ポムニットも一緒にいる。
そう、少し前まではよく釣りもしていたのだが最近ではそれもままならない。
理由は簡単。忙しいのだ。
一過性かと思っていた、というか思いたかった「ミュランスの星」による食堂の人気は今も絶賛継続中である。
どころか口コミも加わって増加の一途を辿っているんじゃないかとすら思える。
なので最近は昼と夜の間も仕込みに追われて休めない事が多い。
以前から働きすぎだとリシェルには怒られていたので、たまにはこうして休息を取っている姿も見せておかないとまた爆発されかねない。
もっとも、食材調達も兼ねているので完全な休息とも言えないのだけれど。
「うん、まあたまにはな」
「そうそう、ライは働きすぎなんだからそうやってちゃんと休まなきゃ」
予想通りのセリフを言うとリシェルはうんうんと満足そうに頷く。
しかし弱冠15歳にして過労を心配されるってどうなんだろう。
「心配することないって。最近はほら、人手も増えたんだし」
そうライが言った瞬間、ポムニットの目がキラリと光った。
獲物を見つけた猫の目だ。
横にいたルシアンが思わずのけぞる。
「そう、それです!」
「それって?」
半分竿に意識をやりながらライが問う。
あんまり騒がしいと魚が逃げてしまうのだけれど。
「姫さまですよ!
どうなんですの、ライさん!?」
あ、引いた。
「エニシア?
うん、よくやってくれてるよ。
最近仕事にもやっと慣れてきたみたいだし」
この手応えは大物だ。
けれど焦ると糸が切られるだけだ。慎重に、慎重に。
「そういう事じゃなくて……」
今だ!
「よしっ!」
一気に竿を引く。
次の瞬間、四人の足元で大きな魚がバタバタと跳ねた。
「よっしゃ大物!
……あ、ゴメン、ポムニットさん、なんだっけ」
「…………」
無言でふるふると体を震わすポムニットを必死でルシアンとリシェルが宥める。
「ポ、ポムニットさん、落ち着いて」
「ほら、そもそもグラッドさんの弟分のライにそういう方面を期待するのが間違いなんだし……」
その様子を見てさすがにライも反省して竿を置く。
「ゴメン、真面目な話だった? 今度はちゃんと聞くからさ」
重ねて謝罪するその姿に悪気はかけらもない。
ポムニットは深いため息をつく。
「お嬢様の仰る通りですね」
「へ?」
「ライさんに期待したわたくしが愚かでした」
そういうと、力なく笑って手を振り、立ち去られる。
慌てたようにリシェルとルシアンがその後を追う。いつもと逆だ。
なんだかわからないけれど激しく失望されたっぽい。
話半分で釣りに熱中していたのは確かに悪かったけど、若干納得いかない。
けど。
「そっか……エニシアがこっちに来てからもう一月になるのか……」
正直な話、即戦力としては実は期待していなかった。
姫さま、と呼ばれているエニシアは本当にお姫様みたいで、とてもじゃないけれど宿屋(とライは言い張っているが実際の労働内容はまるっきり食堂のそれである)の重労働に耐え切れるとは思えなかったからだ。
両親と過ごしていた時は普通の暮らしをしていたのだろうけど、宿屋(もとい食堂)の仕事は見た目以上にキツイ。
せいぜいミルリーフの『お手伝い』くらいの感覚でエニシアを雇い入れたライだったが、予想外にエニシアは頑張っている。
さっきポムニットに言った言葉はウソじゃない。
「ってことはもうすぐ初給料日って事だしな……」
一応エニシアの雇い主はテイラー、ということになる。
しかし多忙なテイラーがわざわざ給料の支払いを直接するわけもなく、かつてアカネを雇っていたように人員補充の采配や給料の支払いはすべてライに一任されている。
とはいってもやはりエニシアに支払われる給料はライの懐からではなく、テイラーから支給されるものを代理で手渡しているに過ぎないのだ。
初給料日か。
ライは一人だったのでテイラーの屋敷まで受け取りに行った。
今と変わらずなんやかやと難癖をつけられ説教交じりではあったが、初めてうけとった労働の対価はとても誇らしいものだった。
「……よし」
一人頷くと、ライは釣竿を片付け市街に戻って行った。
当然、先程の釣果も忘れず。
数日後。
「お疲れ様ー」
「おつかれ」
ランチタイムが終了し、やっとの休息をとっているとライが紙袋をエニシアに差し出した。
「エニシア、はい」
「え、これってもしかして」
「一ヶ月、お疲れ様」
ぱあっとエニシアの顔が明るくなった。
それほどたくさん入っているわけではない事をライは良く知っているけれど、エニシアには金額の問題ではないのだということもまた良くわかっている。
「あ、エニシアお給料?」
「頑張ってたもんね」
リシェルとルシアンの言葉に、エニシアがおずおずと笑みを返す。
そこにライがもう一つ、小さな包みを手渡した。
「で、これは俺から」
「え?」
「給料……ってほど大したもんじゃないけどな」
笑顔で手渡されたそれをまじまじと見る。
「ライ、あけてもいい?」
「お前のなんだからいいに決まってるだろ」
中には、木で出来た小さな箱。
開けると、単音のメロディが流れ出る。……オルゴールだ。
「たまにはやるじゃないの、ライも」
「たまにはってなんだよ。そういうこと言ってるとお前にはやらないぞ」
「え」
リシェルの前にも小さな包みを振ってみせる。
エニシアに渡したものとは明らかに大きさも質感も違う。
「で、こっちはルシアン」
「え、ぼくも?」
ぽい、と投げ渡された包みをルシアンが慌てて受け取る。
「……だから言ったろ? 給料ってほど大したもんじゃないけど、って。
いつも手伝ってくれてる礼ってことで。
言っとくけど、本当にたいしたもんじゃないからな!」
包みを受け取ったまま、ルシアンとリシェルが顔を見合わせる。
「……ここで、エニシアだけとかにしとけばポムニットがまた喜んだだろうにねえ」
「けど、それがライさんのいいところでしょ。
姉さんだって嬉しくないわけじゃないくせに」
「まあ……そりゃ、そうだけど」
姉弟が顔を見合わせて笑う。
ぱんぱんとライが手を叩いた。
「さ、一息ついたら夜の仕込み、手伝ってくれよ!」
「はーい」
今日一日の仕事を終え、『家』に帰る前に不意にエニシアがライに訊いた。
「ねえ、ライ」
「ん?」
昼に受け取った給料袋とオルゴールを大切そうに抱えている。
「私、役に立ってるかな? ライの邪魔になってない?」
ルシアンのようにきめ細かく動けないし、リシェルのように的確に働けない。
却って足手まといになっている気までするのに、お給金を貰うのは自分だけ。
そんな不安を吐露したエニシアの頭を、ライは笑いながら軽くなでる。
「当たり前だろ。
確かにリシェルやルシアンほど慣れちゃいないかもしれないけど、エニシアはエニシアなりに精一杯やってくれてるし、メチャクチャ助かってる。
エニシアが頑張って働いてるのをみたら、俺も頑張ろうっていつも思うよ。エニシアが来てくれないと困る」
「ホント? 本当に!?」
「嘘ついたってしょうがないだろ」
「エニシア、どうかしたのかい?」
気遣わしげな声がする。
「ほら、呼んでるぞ。明日もヨロシクな」
ぽん、と背中を押され、宿から一歩足を踏み出す。
迎えに来た連れの姿を認めると、一旦振り返り、大きく手を振った。
「おやすみなさい、ライ。また明日!」
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