仰向けになり、空を見る。 流れる雲、見ていると吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える青い空。 空だけは、金山寺で見た空と変わらない。 他は、全て変わってしまっている。 あたりの風景は、最近になって初めて見る様になったものだ。 近隣の街の人の話す言葉も、すでに唐のものとは違う。 鼻をくすぐる空気、肌に当たる日の光、それさえ随分変わってしまっている。 「なんだ、起きてんのかよ。」 顔にかかる日差しが遮られる。 立ったまま三蔵を見下ろしている彼の立ち位置によって顔に日が差さないようになったのははたして故意か偶然か。 「あ…、悟空。」 「それとも目ぇ開けたまま寝てたのか?」 悟空の言葉にくすり、と笑うと三蔵は上半身を起こした。 それを待っていたかのように悟空もその横に座り込む。 「ううん。空を見ていたんだ。 随分遠くに来たなぁ、って。」 三蔵の言葉に、ふうん、と相槌は返すもののいまいち良くわかっていないのが気配でわかる。 無理もない。 以前、悟空は自分一人だったら瞬き一つの間に天竺まで辿りつける、と豪語していた。 ようやく天竺に入ることが出来たが、一年以上を費やしてこの程度では同じ場所で足踏みをしているような感覚なのかもしれない。 山中に留まって数日になる。 生気をアプサラに与えてしまい瀕死の状態であった三蔵も、随分と回復の兆しが見えてきた。 もう明日にでも旅を再開することが出来るだろう。 不謹慎ながら、三蔵はこの意識が回復してからの数日を休息のように感じていた。 悟浄の張り巡らした符により陰の気は締め出され、皆とゆったりを時を過ごしている。 …当然、そんな呑気なことを言っている場合ではない事は承知している。 ただ、嬉しいのだ。 金山寺を出てからこんなに長い間一箇所に留まったことなどない。 こんな贅沢な時間は、もうおそらく、ない。 これから先、鬼神との戦いはますます激化することだろう。 そしてそれを乗り越えたとして、大雷音寺に着いた時。 ……それはそのまま皆との別れを意味する。 三蔵が無事に目的を果たすことが出来れば、皆はまたそれぞれの場所へ帰ってしまうのだろう。 特に、悟空は。 常に心が外へ外へと向かっている彼は自分を大雷音寺へ送り届けることでやっと自由を手に入れることが出来る。 長い長い束縛からの自由を。 それを留める権利は、自分にはない。 物心ついた頃から自分を隠し、内に仕舞いこむことを身につけてしまっている三蔵は自分の我侭を口にする、と言うことが上手く出来ない。 黙って三蔵と共に何とはなしに悟空も空を見ていた。 三蔵と出会い、共に旅をするようになって一年と少し。 はじめのうちこそ人間の足の遅さとひ弱さに驚いたものだが、いまではすっかり慣れてしまい、違和感も無い。 ただ、 妖怪の自分にとっては瞬きほどの時でしかない一年と少し。 その間に三蔵は恐ろしく成長を遂げた。 何も出来なかった出会いの頃に比べ、体力もつき、神下ろしも比較的楽に行ってしまう。 そして何より。 ちらり、と三蔵を横目で見る。 どうして誰も気がつかないんだろう。 こんなに、三蔵は「女」なのに。 始めから男装だ、とは分かっていたけれど 三蔵の一年での成長は体力精神力だけのものではなかった。 ふとした瞬間に、はっとするほど綺麗になっていることに気がついて驚く。 そんな時には必死で心に障壁を築く。悟られないように。 大雷音寺についたら、三蔵はどうするんだろう。 錫杖を返し、任務を終えたら。 両親を見つけ出し、一人の少女に戻って平穏な暮らしを求めるのだろうか。 だとしたら、自分はもう三蔵の傍にはいられない。 妖怪の自分は、彼女の平穏を壊してしまうであろう事くらいは悟空にも分かる。 その時を思ったときに胸に生ずる漠然とした不安の正体を、悟空は知らない。 ついこの間三蔵が死んでしまうかもしれない、そう思ったときに感じた激しい怒りにも似た感情とはまた別の、はっきりとはしない思い。 根幹は同じような、しかし全く別なような、複雑な感情。 「悟空、…悟空?」 「……ん?」 「どうしたの、僕の顔に何か付いてる?」 無意識のうちに三蔵の顔を凝視していたらしい。 あわてて顔を背ける。 「…別に」 「そ、そう?」 三蔵もまた所在無く視線を空へとさまよわせる。 「……もうすぐ、大雷音寺だな…」 「…うん……」 「おねえさまもさぁ、人の心が見えるくらいなのにどうしてああ鈍感なのかしら」 離れた木陰で様子をうかがっている涼鈴が溜息をつく。 それをみて八戒が苦笑しながらとりなす。 「まあ、三蔵はんらしいんとちゃいまっか。 …アニキも、そういうことに関しては鈍そうやしなぁ……」 「放っておけ」 新しく符を作製している悟浄が顔も向けずに言葉だけを放つ。 「何よぉ。 悟浄は心配じゃないって言うの?」 口を尖らす涼鈴に、悟浄はただ少しの柔らかい笑みを返しただけだった。 「さて、と……」 立ち上がり、三蔵は大きく伸びをする。 その拍子に、袖口から細い真鍮の腕輪が顔を覗かせる。 「また、明日から宜しく頼むね、悟空」 とりあえず、旅が終わってからのことは終わってから考えよう。 今は、ただ目的を達することを。 終 |