「……痛っ」 顔をしかめ、壬生は布を手放した。 針で指をつくのは、今日もう三度目だ。三度目の今は力も掛かっていたらしく、左の親指には小さく血の丸い玉が浮き出ている。 溜息をつくと、針山に針を刺す。 この調子では布地に血の染みをつけてしまうのも時間の問題である。諦めて裁縫道具を片づけにかかった。 当然、普段はこんな事はない。 指に針を刺すどころか、針を刺し損なうなどという事自体まず無い。 他の事を考えながらでも、覚え込んだ指は勝手に布地を縫い上げていく。それが常である。 理由。 そんなものは、分かり切っている。 目を閉じなくても浮かんでくる顔。 もの言いたげな顔。 また、龍麻を哀しませた。 昨日、その龍麻を振り切って仕事に向かった。 針で指を刺さなくても、日毎血に染まっていく自分の手。 生命が失われていく瞬間を、幾度となく感じ取ったことのあるこの手。 この仕事を、やめることは出来ない。 館長への恩、母親の治療費という理由ももちろんあるが、本当の一番は、違う。 仕事を続けているのは、自分がこの生業に信念を持っているからだ。 命を奪い続ける、この闇の仕事。だがそこに、自分の意義を見出しているからだ。 自覚はある。 たとえ、龍麻に懇願されたとしても、自分はこの世界から足を洗うことはないのだろうと。 いつか、形が変わる事があっても、どこかで自分は闇にかかわずらっていくのだろうと。 そして、自分がそうである限り龍麻は哀しみを覚えるのかも知れない。 だったら。 ここ最近ずっと考えること。 ……僕は、龍麻から離れた方がいいのかもしれない。 そんな事を考えていたときに、電話が鳴った。 ドキリとする。 自分にかかってくる電話は三つ。 仕事の依頼の電話。 母に関する、病院からの電話。 ……そして、龍麻からの電話。 いつもは受話器を取る前に、病院からの電話ではないかと臆する。 だけど、今日は、今日だけは、病院からの電話であることよりも龍麻からの電話であることの方が怖い。 コールがひとつ。 ふたつ。 みっつ。 …………10回目のコール。 受話器を取る。 「はい、壬生です」 『……何かあったのか?』 息を呑む。 やはり龍麻からだ。 「いや、すまない。……で、どうかしたのかい?」 『別に何ってわけでもないんだけど。 今、すぐ近くまで来ているから。居るかな、と思って』 居るかどうかの確認。行っていいかどうかの確認ではない。 それだけを言うと龍麻はあっさりと電話を切った。 壬生の答を待つまでもなく。いつものことだ。 ツー、という空虚な音が壬生の耳につく。 やがて、しばらく経つと今度は呼び鈴が鳴らされる。 鍵は、かけていない。 返事を待つこともなく、ドアが外から開かれる。 「よ」 これも、いつものことである。 あれだけ、何度も考えたことなのに龍麻の顔を見るだけで決心が揺らぐ自分が情けない。 それでも、自分は言わなければならない。 喉の奥から声を絞り出す。 「君は、もう、此処には来ない方が、いい……」 龍麻が、怪訝な顔をする。 「何故?」 「何故、と、聞きたいのは僕の方だ。 どうして君は此処に来るんだ。 哀しい顔をするくせに。 どうして、それでもなお、此処に現れるんだ。 救済など、僕には無用だというのに」 感情で話している。 冷静になりたいのに、頭の中に靄がかかったように思考は遅々として進まない。 傷つけたくはないのに、口調が荒くなっているのを自分で感じる。 自制が効かない。 「僕は……君を、不幸にしてしまう」 いきなり、ぐい、と衝撃を受けた。 龍麻に胸ぐらを掴まれたのだ。 そのまま、まっすぐに瞳を捉えてくる。この目は魔性だ。逸らそうとしても、逸らすことが出来ない。 「もし、それが婉曲的に僕のことを迷惑だと言っているのなら、それはそれで僕は受け止める。 だけど、今の言葉がそのまま直接的な意味を持っているのなら、僕は、怒るよ?」 龍麻が、手を離す。 しかし、目だけは相変わらず壬生をはっきりと捉えている。 ヘビに睨まれた蛙と同じだ。五体全ては自由のはずなのに、心だけが捕われて、逃げることも、動くことすら出来ない。 「僕は、壬生の支えになりたいと、そう、言わなかったか? その言葉が、不要なのならそう言ってくれ。 僕は壬生といて壬生を哀しいと思ったことはあるけれど自分自身を哀しいと思ったことはない。 僕の幸せ不幸せを決めるのは壬生、君じゃない。僕だ。 そして、僕は今、決して不幸じゃないと心から言える。誓える」 「……将来、不幸になる可能性だってある」 「将来の事なんて誰にも分からない。 どの道を通ったって不幸と幸福の可能性は有るんだから、だったら、僕は自分の通りたい道を通るだけだよ。 ……ねえ、僕は、この道を通っても、いいんだろう?」 少し、不安そうに、しかし優しく微笑する。 そして、僕は思う。 これから先、何があっても、何をしても。 龍麻、君を傷つけることがあっても。 君はきっと全てをこうして許してくれるのだろう。 闇を照らす一筋の光。 道に迷う僕を導く、ただ一筋の光。 戻る |