桜が満開である。 盛りの桜を見逃すまいと訪れる人の数も最高潮である。 「……綺麗ね」 藍が感嘆の呟きを漏らす。 すると、横で微かな嗤い声が聞こえた。龍斗が鼻で笑ったのだ。 「何がおかしいの?」 非難めいた藍の言葉に龍斗は冷笑を返した。 「ああ、美しいな。 咲き誇る地上の花だけを愛で、足元に落ちた花弁は踏みにじる。 やがて青葉が出てくればその新緑の美しさには目もくれず去っていくのだろう。 いや、全く美しい。 そもそも数日で散ってしまうからこそ、飽きる前に目の前から去っていくからこそ、人は櫻を愛するのかも知れん」 藍が眉を寄せる。 この男はいつもこうだ。 誰かが素直な感情を漏らすとそれを嘲笑わずにはいられ無いかのような言葉を投げかける。 「貴方は、何かを美しいと素直に感じることは、無いの?」 龍斗が、少し肩をすくめる。 「これは心外だ。 美しいものを美しいと感じる心。それは当然持っているつもりだ。 だがな、何をもって美しいと感じるか、それは千差万別、十人十色と言うものだ。 自分が美しいと思ったものを人が認めなかったからと言ってそれを非難するのは間違っているとは思わないか、仁医の娘」 仁医の娘、これは龍斗が藍を呼ぶときに使う言葉だ。 名前を呼ばれたことはない。 この揶揄と皮肉を込めた呼び名が当然藍は好きではない。 「……そうね、その通りだわ。ごめんなさい」 あっさりと藍が引くと龍斗はつまらなそうに顔を背けた。 「だけれど、散りゆく美しさがあるからまた人は桜を愛するのだと思うわ。 あとに命をつないでいく美しさがあるから……」 いつもこうだ。 一度引いたように見せかけてその実決して自分を曲げようとしない。 もっとも、それは龍斗も変わらない。 だからこの二人の会話はいつも平行線で交わることがない。 「命をつなぐ……ふん。相変わらずの奇麗事だ。 菩薩眼の娘は子を成すと命を落とすという。あんたはその命をつなぐことすら出来ない」 「いいえ。 その時が来たら、私はきっと子供を産むわ。 自分の命を捧げても、その子を産むことを選ぶわ」 「……身勝手な女だ」 「え?」 「身勝手な女だ」 「……どういう意味?」 「自己犠牲といえば聞こえはいいが、只の自己満足にすぎん。 間引きをする女の方がまだ幾分ましだ」 「……言っていいことと悪いことがあるわ」 藍は蒼白になった。 声が震えている。 彼女がこれほど感情を高ぶらせる事は滅多にない。 対して龍斗はいつもと変わらぬ表情だ。憎らしいほどに。 「間違ったことを言ったつもりはない。 間引きをする女は自分が子を育てきることが出来ないのを承知の上で夜叉になる。 自らが大罪を背負うことで子を先の苦しみから解放する。 仁医の娘、あんたは逆に子供に罪を背負わすのだろう?」 「……罪を?」 龍斗の言葉の意味が分からない。 「自分の命と引き替えに子を産む。 確かに聞こえはいい。が、実際の所その後のことは考えたことがあるか? 母を無くした子は弱い。育ちきることが出来るかどうか。 その上に自分のせいで母が死んだという母殺しの罪まで背負い込まねばならないのだ。 愛情を与えてやる代わりに孤独と罪を与える。それならば初めから子など成さない方がいい」 藍は愕然とした。冷水を浴びせられたような感覚。 そのような考え方はしたことがなかった。 しかし、そんな考え方もあるのかも知れない。 そうやって気を落ちつかせてみて藍は気が付いた。 今日の龍斗は若干能弁に過ぎるような気がする。 「……もしかして、貴方も、孤独と罪を与えられた子供だったの?」 「今現時点での記憶でさえあやふやなのに嬰児の頃のことなど、覚えているはずがない」 いつもの皮肉な笑み。 もう龍斗は感情を布で覆い被せて隠してしまった。分厚い布の向こうの真意は見えない。 一足先に去っていってしまった龍斗を見るとも無しに見送りながら、藍は一人呟いた。 「…………それでも、私はいつか子供を産むわ。 愛する人と、自分の血の証に。想いを、生命を繋ぐために」 自分に言い聞かせるように。 もう数日もすれば龍斗の言葉通り、桜は散り新緑が芽を吹き、人は桜から興味を失うだろう。 再び時が巡り新たに引き継がれた花が開く日まで。 〜終〜 戻る |